「石榴」第19号(広島市)

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2018年4月16日 (月)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

【「クリスマス」木戸博子】
 主人公の私は、妻子ある男の子供を宿した身体で、それを相手の男にも、家族にも告げていない。どうするのか? この課題をかかえたままのなか、認知症の祖父が、徘徊中に足を骨折して入院する。私の両親も加わって、祖父の対応に追われるクリスマスシーズンである。
 構図的には、老衰期に入っている祖父の認知症的な反抗行為、それに新しい命を宿した私。対応に追われる家族関係から、人生における現代への問題提起がされている。なかでも、認知症の祖父の行動に細かな描写が集中しており、その不合理な反抗ぶりが、小説的な構図のなかにおさまっている。創作的なパターン化が見える。祖父の認知症の対応に加わりながら、私は子供を産むことを決意する。日本の家族関係は、さまざまな形態が生じて来ている。それを認知症の祖父の介護問題と絡めたところが、女性らしい作者の視点がユニークである。
【「写真家宮内民生の到達したもの」篠田賢治】
 目次には、作者が高尾祥平となっているが、どちらかが本名なのであろうか。写真家・宮内民生という人の作品評論の体裁をしている。しかし、内容はベンヤミンや、フッサールの現象学の視線からみた、映像表現・言語・コラージュなどの、複製芸術論のようになっている。アクロバチックな、論証展開であるので、なかなか解釈が難しい。現在の二次創作的なジャンルや、シュミレーション的コピー表現論にもつながるのであろうが。ありきたりの芸術評論の平板さを避けようとする、作者の特有の手法であろう。
発行所=〒739-1742広島市安佐北区亀崎2?16?7、「石榴編集室」。
紹介者=「詩人回廊」編集人・伊藤昭一

カテゴリー:石榴

「澪」第11号(横浜市)

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2018年4月14日 (土)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

【「プロペラ地蔵」石渡均】
 相模原市の小田急線の付近をオダサガというそうである。主人公は、作者と等身大らしきプロのカメラマンで、写真家育成専門学校の講師もしている。若い頃は時代のニーズにマッチした写真集が出せたが、年齢が高くなると、写真集が売れなくなる。そこから妻から離婚の申し出を受けている。その設定が自由な精神と行動を可能にし、物語化に便利である。
 相模原の町のいわゆるそこらの風景描写が、さすがカメラマンと思わせる。丁寧さが光る。弘明寺や戸越銀座の場所も懐かしい。プロペラ地蔵の怖しいような逸話にも存在の説得力がある。だが、話の軸は、教え子や、紹介されたカメラマン志望者たちの自殺してしまった若者の話になっている。
 三人の自殺者の関わりを描くが、彼等の内面に迫ることができない。どうにか化出来なかったのか、という思いは伝わるが、世代の異なる自死者たちの心はわからない。この分からないことの報告の作品となっている。
 散漫のような話の手順だが、読んで飽きない。多様性のなかで、妙に集団性が崩れない日本社会の描き方の一つであるかも知れない。
【「大池こども自然公園生態系レポート?かいぼり編(下)」鈴木清美】
 池のかいぼり作業が、テレビ番組にもなった。自分も、かいぼり後の井の頭公園に行ってレポートをしているので興味がある。
 ここでは、地元の写真家による横浜・旭区の「大池」のかいぼりと、その地域の歴史、生態系がレポートされ、見事な写真もある。とくに、外来魚アリゲーターガーの水面浮上の写真が見事にキャッチされているのが、すごい。アリゲーターガーは、自分が大田区の?川の近くに住んでいた時に、池上本門寺近くの川にガ―が3匹はいるらしいという目撃情報があった。それが5、6年前から目撃されている、というので、時折、川沿いを探したが見つからなかった。ところが横浜の外来種捕獲ボランティアがやってきて、捕獲した。テレビ放送までついて、見事2匹を捕獲した。
 また、自分はライブドアのネット外部ニュース記者として、多摩川の「お魚ポスト」を取材した。たしか稲田堤の近くだった。現場で池の写真はとったが、管理者に会うことが出来ず、ボツ記事にした記憶がある。それはともかく、ここでは、外来種生物との生態系を乱さない共生的思考などが記されている。また、池の魚や野鳥への一般人による過剰な餌やりなどの問題提起がある。
 同感するし、実際に独り暮らしの友人が、野良猫に餌やりするので、近所からクレームをもらったりし、当人も癖になり、病のようになっているので、他人ごとではない。とにかく、こうした記事は、フクションより面白いところがある。
【「ウメとマツ」鈴木容子】
 ウメとマツは、よしお君が飼っていた猫の名前である。話は昭和50年から60年頃のものだが、ポイントは視点がよしお君だけでなく、猫にも移動したように書かれている。短編で視点の移動は、失敗するとされている。だが、ここでは、それが欠点というより、自然で人間の幻想を見る存在としての進化の途中であるような現象に読めた。
【「針鼠二人」上田丘】
 タイトルから、守りの堅い人間同士の話かな、と思って読んだら、若者のカップルの心理が描かれていて、当たらずとも遠からず。理屈っぽいところのあるひとつの男女交際風俗風景。
【「十五分後」衛藤潤】
 都外のデパートの屋上の観覧車の係員になった予備校生の時松が、客とゴンドラに同乗することがあり、それが評判になって制度化する。
 そこで、時松自身が同乗した人たちの記録のような話。変わった設定で面白い。無関係の人の語る話を聞くという軽い読み物で、これもまた現代風俗のひとつか。
【映画評「カツライス・アゲイン!『ど根性物語・銭の踊り』」石渡均】
 勝新太郎と江利チエミが主演で、市川昆監督の映画の話だが、自分は見ていない。しかし、ヌーベルバーグの幾つかは見ていたので、状況説明は面白く読める。また、撮影の裏話と作品批評が一体となっているのも、興味をそそる。特に、市川昆監督のカメラの個性が生まれるための条件がわかって、なるほどと思った。
【「ハイデガーを想う(?)下・柏山隆基」
 外国哲学というのは、用語の翻訳がまず困難として立ちはだかる。この作者の用語の説明は、翻訳語の日本語解釈のイメージづくりに参考になる。ただ、認識についての定義なので、範囲は限られている。自分は、雑誌「群像」に連載の中沢新一「レンマ学」を読んでいるが、不立文字の認識と哲学的な日本的解釈の違いを感じる。
発行所=241?0831横浜市旭区左近157?30、左近山団地3?18?301。「澪の会」
紹介者=「詩人回廊」編集人・伊藤昭一。

カテゴリー:

2018年3月27日 (火)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

【「三姉妹」本間弘子】
 高齢の父親が自転車乗っていて、突然倒れて入院する。成長して家庭をもっている三姉妹が、協力して父親の入院後の生活ぶりを見まもり支援する。父親の病状の観察記であるが、娘ならではの心使いが描かれる。描く範囲が狭くエッセイの世界であろう。
【「のどかな日々」(全五編)鷲頭智賀子】
 年老いた母親と暮らす主婦の日常を描く。静かでのどかな時を過ごす。なかにテレビ番組を見ていて、平野レミが出ている話がある。自分は、あるレコード会社のイメージ戦略の小冊子を編集担当をしていた時、平野レミにエッセイ原稿を依頼した。電話をかけると「はーい、平野レミは私でーす」と、いって、執筆を快諾してもらえた。私が20代後半のころだから、それにしても、彼女も相当の年齢であろうと、タレント生活の息の長さを痛感した。彼女の父親も夫も著名人だが、それを知る人も少ないのかも知れない。
【「世界ぶらり文学紀行」杉山武子】
 文学者のいた地域を個人旅行する。アトランタ(米国)では、「風共に去りぬ」のマーガレット・ミッチェル。パリ(フランス)では、カフェ「ドゥー・マーゴ」にまつわる話として、ヘミングウエイ、藤田嗣治、サルトル、ヴォーボワール、三島由紀夫などの滞在事実を紹介。ベルリン(ドイツ)では「舞姫」の森鴎外。ワイマール(ドイツ)の「若きウェルテルの悩み」。ストラストフォード・アボン・エイボン(イギリス)でのシェイクスピア。ロンドン(イギリス)での夏目漱石。上海(中国)では、「吶喊」の魯迅。それぞれの地域にちなんだ訪問記と文芸評論との合わせ技だが、どちらにしても、労多い割には、食い足りない。本人が足を運んだという意義がいちばん大きいのであろう。
【「喜びも悲しみも私の財産」北村洋子】
 冒頭に主婦が絵画で、地域の賞を取る話がある。しかし、家庭生活に専念するため絵筆を捨ててしまう。それからは、家庭の出来事の叙事に終始する。タイトルにすべてが表現されている。
【「『百鬼夜行』の妖怪と『徒然草』」
 鳥山石燕の浮世絵「百鬼夜行」が、吉田兼好の「徒然草」の題材を、妖怪と結びつけて描く、その事情を評論している。調べて疑問を解くのに作者特有の熱が感じられる。
発行者=鹿児島市新栄町19?16?702、上村方。「火の鳥社」
紹介者=「詩人回廊」北一郎。

2018年3月21日 (水)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

【「マイホーム」花島真樹子】
 主婦の悠子の息子の洋介は、大学生の時は、一度は部屋を外に借りて通学していたが、やがて、実家に戻って、引きこもり生活をしている。そこで悠子が夫と洋介の間で、家庭のなかの調和に苦労する話。引きこもりに関する話は、多くあるが、ここでは、親には理解不能な(親でなくても、普通の感覚では、見聞しても理解しにくいであろうが)息子の精神や気分の断絶に関し、より実感の迫った表現になっている。
 およそ社会生活において、人間は自分の感情に逆らって行動せざるを得ない。そこで、かつては、盲腸になったり、神経症になったり、心の負担を見える形にしていた。この作品では、友人の医師が「これは心の問題ではなく、脳の問題だ」とアドバイスするところがあるが、その指摘が納得するようなところまで、洋介の状態を描いているところがある。やや抜け出ており、そこは優れている。とりたてて解決手段もなく、現状維持のなかで、生活を続ける主婦の姿を描いているのも、自然で普遍性がある。
【「川向うの子」小松原蘭】
 1970年代の、深川の風俗を描き、対岸の町を「川の向こう」といって、差別的な意識をもつ町の家に育った、女性の思春期の記。細かくさまざまなエピソードが描かれているが、
書いている間に、時代の風物への懐かしさが強く出ている。作者の差別に対する精神的なものの変化や、成長の痕跡も生まれてこなかったようだ。ただ、歳月の生み出す詩情だけが語られる。これも終章の一つの形であろう。
 これは一般論だが、生活記憶でもなんでも、描き始めと終わりの間に、精神的な揺れや方向性の違いなど、何らかのゆらぎや変化がないと、物語の形式に入らない。線を横にまっすぐに引いただけのものだ。もし線を波打たせるなり、どちらかに上下すると、絵やデザインに感じさせる。その原理は、小説に当てはまる。過去と現在とをたどって、同じところに精神があるというのは、物語的には、整合性があっても、現代文学としての栄養を欠いていること、カロリーゼロ飲料に等しいと自分は、考える。
【「生きて行く」坂井三三】
 一郎という男の、生活と人生をアサコという彼女との関係について、かたる。一郎の精神性やアサコの奇矯で複雑な行動が描かれている。文体は、ざっくりとした描き方で微妙なニュアンスの表現し難いものなので、そこから美文的な文学性の楽しみはないが、現代的であることは確か。どことなく、時代を表現する方向を感じさせながら、なにかその芯に当たらないようなもどかしさを感じさせる。
【「冬の木漏れ日」難波田節子】
 家族関係は、人間の生活構造の基本をなすものである。が、核家族化がすすみ、個人主義が行きわたると、その構造に変化が出てくる。ここでは、昔ながらの夫婦、親子の情愛を軸に、昔のような情感をもって生活できない、生きにくさを表現している。たとえば、両親や弟の進学のために婚期を逸したという女性の将来を案じたりする。実際には、そのために婚期を逸したというのは、周囲が思うことで、実際はわからないと考えるのが現代である。いずれにしても、ある時代に主流であった価値観を維持する家庭人の生活ぶりがしっかり描かれている。
発行所=〒215?0003川崎市麻生区高石5?3?3、永井方。
紹介者=「詩人回廊」編集人・伊藤昭一。

カテゴリー:季刊・遠近

2018年3月15日 (木)2018年3月15日 (木)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

【「バグダット空港」えひらかんじ】
 前号に続いて、国際的な建築コンサルタント会社に勤務する設計者が、イラクのバグダット空港の建築設計のため社命で、現地の各国のコンペに参加し、無事そこの設計が採用されるまでの、国際人の活動ぶりを語る。人によるであろうが、私に大変面白く、中東の様子が分かって面白い。私自身、輸出入の仕事に携わり、やらされたのが、イラン・イラク戦争で、ODAがらみの輸出品がダメになり、倉庫に山積みの製品が何時までも処分できないでいたのを整理することもしたので、まるで無縁ではない話であった。
【「百ドル」根場至】
 これもまた、海外支社のサラリーマンもの。シンガポールでの日本企業に勤めるうちに、現地の従業員管理に手を焼く話。海外に支店をもつのは、日本企業が親会社で、そこの仕事を下請け的に扱うことが多いが、このエースはメーカーかなにかで、現地生産の企業のようだ。話は現地採用の男に、一杯食わされる話だが、いかにもありそうな事例。読み物として面白い。主人公の帰国してからの日本の社内体制に慣れるまでを書いたら、テーマが出来たかも知れない。
【「祭りの終わり」杉崇志】
 会社の人事部に配属された男が、景気の良い時は求人難で新入社員を集めるのに、手腕を発揮し、バブルが弾けると、リストラに腕を振るう。しまいには、自分もリストラされるかと思うと、実は重役に出世してしまう。会社人間のパターンの一つとして、時代の記録になっている。
【「隣家の火事」みず黎子】
 隣の家の火事によって、自分の家の火事になった騒動を想い起こし、そこから家庭環境の出来事が語られる。小説的な形式をもった生活日誌。
【「ラビリンンス・さん」伊吹萌】
 ラビリンスさんというのは、貪欲や嫉妬など、不吉な欲望に取りつかれた不幸な人のことを示すそうである。話は資産家の年上の男と結婚した妻が、若い愛人をもって、暮らす。やがて、彼女が夫と登山した時に、夫は崖で滑落死する。語り手は、それ以前にの夫から、自分の身の上になにかあったら、読んで欲しいという手書きを持っている。妻の夫殺しの状況は濃厚だが、証明はできない。
 話の進行が遅く、まだるっこいが、細部の書き込みは、熱意があって、意欲がにじむ出来合いで、面白く魅力をもった作品である。小説教室で語りの本質を学んだ成果が発揮されているようだ。
【「E・ヘミングウエイの時代」(二)尾高修也】
 ヘミングウエイが、「武器よさらば」以後の長編小説と資質における短編小説への傾斜との関係につて触れている。勉強になる。現代文学の話題作は、すこし以前は、世界も日本も、ガルシアマルケスなどフォークナーの影響が強かった。
 現代は日常での通信手段では、ヘミングウエイのタイプライターの産物とされる短文の積み重ねが普及している。その点で、ヘミングウエイは短文で意味を深く表現し、幾度も読み返せる点で、優れた作家だと思う。テーマが人生の空虚さに関連しているのが、良いのかも知れない、と思った。
発行人=〒346?0035埼玉県北本市西高尾4?133、森方。
紹介者=「詩人回廊」編集人・伊藤昭一。

カテゴリー:私人

<2018年 3月 1日(木)付、「文芸同人誌案内」掲示板より転載・投稿者:kitaohi>

掲載されているそれぞれの作品、とても素晴らしいです。
その中で、やはり一番感心したのは「代り筆『医と筆と』」でした。漢方の医の世界、薬の世界の考証、感心しました。作品の中のエピソードもいくつかありますが、なぜかどれも強烈に記憶の中に入ってしまう感じです。作者の筆力の凄さが感じられます。

カテゴリー:照葉樹・二期

「クレーン」39号(前橋市)

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2018年3月 1日 (木)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

【「花祭りのあと」糟谷和美】
 作者が、東京・赤羽の改札口を出たところを話の糸口にしている。十年ほど前に亡くなった母親が、赤羽出身である。ここでの、工場経営者の祖父と母親の戦前戦後の運命が、手短に語られる。
 母親が工場経営者の娘で、裕福だった子供時代に、荒川で泳いだり、近くの「常勝寺」のあるとろだったらしい。その寺は、作家・安岡章太郎の作品の「花祭」の内容から、安岡が中学生時代に、成績が悪いので預けられた(作中では入院)ところだったことがわかる。この安岡章太郎の「花祭」の引用が楽しめる。何気なさのなかに微妙な味わいのある文体は、改めて文学的な表現の重要さを認識させられる。
 それだけなく、語り手の母の実家の祖父の時代に負の歴史をもつ墓の前に立つ。そこは、語り手の曾祖父にあたる男の自死の悲劇があった。その墓が存在するということは、親族の誰かが建てたということになる。しかし、語り手は、寺の過去帳を見て、事情を詮索する気にならない。
 第三の新人といわれた作家たちは、地味な作品のものもあり、ここでは安岡章太郎の作品の舞台となった世界を広げる役割果たす良い作品に思えた。
 現代文学界の表現が、技術の発達によってなのかは、わからないが、過去の文学的な精神基盤から乖離した位置にいるように感じる。あらためて、旧来の文学的な基盤を見つめることも必要であろう。
【「天皇制廃止を訴える」わだしんいちろう】
 タイトルは、まるで評論かオピニオンのようだが、形は小説である。連常寺行夫という男が「現在(いま)、天皇制廃止を訴える」という講演をするという。主催は「天皇制廃止を訴える会」。語り手のぼくは、極左団体の政治集会のかくれみのではないかという懸念をもつ。しかし、出かける。その前に、紅い蜘蛛が腕に這っているのを振り落とす。
 それから行ってみると、連常寺は、1926年生まれで、戦時中は戦争に行ってしぬものだと思っていた。友人には、特攻隊員なって出撃した者もいるという。城山三郎の小説「大義の末」にある、自分の幸福より、大義である忠君愛国だけを思いつめてきた、という一文を例にとり、国民が天皇の命令によって、戦争にいった。それなのに敗戦になって昭和天皇は、責任をとらなかった。そこで、敗戦以後彼は、天皇制廃止を訴え続けて来たという。
 そこから天皇制の発祥の由来や、その根拠の解説をする。彼らのグループと僕は、なんとなく縁ができる。連常寺は高齢ながら周囲の女性にもてもてで、エロい関係も堪能している様子が描かれる。ぼくは、ばからしくなる。ただ、その時に、天井が赤い色になっている幻影を見る。末尾の参考資料に、「大義の末」のほか、「語りの海吉本隆明?幻想としての国家」、「吉本隆明が語る戦後55年?天皇制と日本人」が、ある。詩人や文芸評論での文学的な世界だけの話のようだ。
 無条件降伏した日本における昭和天皇の戦争責任は、戦争勝利国によって、免責され「象徴」として、憲法にその存在位置を明記し、保証された。象徴の神に祈る貴人として天皇の存在は、神話のなかにあり、その発祥を問うことは、事実上できないであろう。また、天皇制についての改変は、憲法改正を意味するのが、現実である。
 宗教の自由を標榜する欧米には、聖書に誓うことで、正義を問うている。キリストも、その生誕根拠も、神話の世界のものである。また、州法によっては、ダーウインの進化論を教えることを禁じる法律が存在する。神の創造した人間の祖先が猿だなんて、許せないのである。矛盾をそのまま抱えてきたのが、法である。急いで直す必要があるものと、そうでないものがある。
 まさに、「幻想とともに生きる人類」としての憲法を持つ(ない国もあるが)人間像と向き合わないと、現代とのズレが目立ってしまうのではないか。
【「最後の西部劇」田中伸一】
 これはクリント・イーストウッドの映画人の記録と、ジム・ジャームッシュ監督の作風評論である。イーストウッドの映画は、テレビでいくつも見ているが、知らなかったことが多いし、ジム監督の話も面白い。
発行所=〒371-0035群馬県前橋市岩神町3?15?10、わだしんいちろう方。前橋文学伝習所事務局。
紹介者=「詩人回廊」北一郎。

カテゴリー:クレーン

閉鎖のお知らせ

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長い間、管理者不在状態で申し訳ありませんでした。

さて、このブログを置いているサーバーの契約期間が2018年4月30日で終了いたします。
ここで使用しているMovable typeというブログ・システムが古くなり、脆弱性についても非対応になったということですので、安全性を考慮してこれを機会に閉鎖することにいたしました。
4月30日まではアクセス出来ますが、翌31日からは完全にアクセス出来なくなります。
よろしくご理解のほどお願い致します。
                           管理人

「孤帆」29号(川崎市)

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2018年2月23日 (金)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

【「そこに親知らずはありますか」市川奈津美】
 いまは男女のパートナーの同棲相手を、同居人と称する。短いが、パートナーとの離別を女性の立場から短く描いて、切れ味が抜群。出だしに、美知という女性が歯科医で、親知らずを抜くところを描く。暗喩として効果的で、自らの肉体を構成していた存在が、ある時点で不都合となり、抜き取る。不都合であったものだが、なくなったための喪失感が残る。
 美知のパートナーの男とは、恋愛で夢中になって同居してきたが、いつの間にか、それに慣れ、ときめきのない生活になっていた。彼女はそうした日常の連続に疑問をもっていたが、男は現状に満足している。彼女に別れ話を切り出され、男はその存在の重要性に気付くが、すでに時遅しである。彼女は抜歯の痛みが薄れるように、彼ことを意識しなくなっていくのだろう。
【「きみは冷たいひとだね」とうやまりょうこ】
 あかねは、誰からメールをもらうが、誰だかわからない。相手はこっちを知っている。それが誰かを、社内外の関係から想像する。当然それは、その相手と自分の関係の在り方を浮き彫りにし、意識化することになる。そのように読むと面白いが、作者はその効果を狙ったかどうか、わからない。他者からの視点をした自己像を浮き上がらせる。
【「指」草野みゆき】
 恋人の愛撫の心を象徴するように、その指に対する情念を語る。詩的ロマンのある散文詩。形式としての行替えだけの詩は、もう力を持たない時代になった。
【「It`s a Sexual  World‐3‐」塚田遼】
 今回は、7「男性 62歳 高等学校校長」の項と、8「女性 14歳 無職」のケースが、ドキュメンタリーのようにリアルに描かれている。それぞれの話はまとまっていて、独立して読める。現代人の社会的な立場とセックス生活の関係の病理を浮き彫りにしている。
発行所=川崎市中原区上平間290?6、とおやま方。
紹介者=「詩人回廊」北 一郎。

カテゴリー:孤帆

2018年2月20日 (火)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

【「母と娘のパリ訪問記」小山田由美】
 海外旅行記は多いが、おおよそが自己記録の表現としてのスタイルである。そうしたものに対し、私は特殊な読者となる。実は、事情があって、一度も国外に出たことがない。
 そういう自分は、国内にいては知ることのない体験を、どのように知ることができるか、という興味で読む。そのなかで、本作は大変興味深く、好奇心を満足させてくれた。
 とくに1934年生まれの母親が、見合い結婚し、小学学校教師をして、絵画芸術の興味を寄せていたという。当時の因習の強い社会環境で、母親、妻とう主婦としての役割のみに比重の偏る生活。そのなかで、華道や絵画鑑賞に心を寄せる姿が印象深い。
 芸術への姿勢を家族全体の環境から、手際よく書きだす。優れたエッセイストの見聞記として、読めた。とくに、ユトリロの晩年の作品が、母親の絵画の精神と共通点を見出すところなど、そういうこともあるか、と驚いた。
 日本では、著名な美術館の作品展があると、昔と違って混雑がすごい。とくに上野は、落ち着いて観られない。その点、向こうではゆっくり見られるのは、素晴らしい。
【【評論「プラトン・ミュートス考(その2)新名規明」
 第一印象は、古典哲学に縁がないので、解るかな? と疑問に思って読み始めた。だが、ポストモダン思想の現代に通じるものがあることが分かって、その原初の思想はそうなのか、少しばかり納得した。ちょうど、自分はポストモダン時代の近代社会(モダン)との分岐点を探していた。そこで、その手掛かりとして、文学的な実作者から見た近代文学の本質が菊池寛の文学論に存在するのではないか、と資料を研究している。そのなかで、菊池がモダン社会の世界文学について、大局的に把握しているのがわかった。ポストモダン時代との比較をしているうちに、彼が「真・善・美」の思想を背景にしているのは、ヘーゲルを読んでいたためらしいことがわかった。
 この真・善・美は、ギリシャ哲学からのテーマであると知ってはいたが、これはプラトンやソクラテスの時代の思索のための対話の形式がわかって面白い。
【「ひとりぼっち評論―戦後美術から原発まで」ミツコ田部】
 「序にかえて」の項では、ポストモダンの大冊ドゥルーズ、ガタリの共著「千のプラトー」について芸術論が述べられている。私の年齢層ではポストモダンについてなにかを語ること自体が、、日本的みんなの世界から外れたことなのである。もちろん自分は読んでいない。ただ、ネットの読書メーターを読んだり、解説を読んでイメージを取り込んでいる。そのイメージにつて手掛かりを得ることができる。戦後美術に関し、アメリカ人特有の雑駁な芸術手法を「俗物の形而上学」という名称で表現していることは、知らなかった。またここで、述べているように原発事故の教唆する未来を、なぜ政治がこんなに無視できるのか。日本人のみんなが気にけないか、催眠効果か、思考力の低下なのか、よくわからない。資本主義の示す本性なのかも。
発行所=〒812?0044福岡市博多区千代3丁目2?1、(株)梓書院内。」ガランスの会。
紹介者=「詩人回廊」編集人・伊藤昭一。

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