016年11月28日 (月)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

【「臆見」稗田翔】
 全文カタカナでの独白スタイルの小説。カタカナにしたということの、表現効果はどのように働くか、という問題提起を含んでいる。文体でのカタカナ表記は、谷崎純一郎が効果的に用いた事例がある。「沢山の作家ガ書イテイルヨウニ、精神病棟ハモウ現世トハオモエナイ。ソコニ住ム人間モ、医師モ狂ッテイル」というのは、異常ダロウウカ」
 ここでの効果は、語り手が精神病院に入れられるという、思考の変調者の言い分を、そのまま受け入れるということになる。そこから、性格の非日常的感覚を、読者にそのまま提示する。独特の傾斜があるが、それがために病院で実質的監禁状態にする正当性があるのか。しかも異常な事件を実行した犯罪者でも、精神鑑定をうけることもない現代社会。社会人としての世間並みの感性と異なる語り手の、違和感のない存在感を浮き彫りにさせて提示している点で、この文体の必然性を感じさせる。
【「居酒屋だより」(二)妻がフランメンコを踊る夫の話」野上史郎】
 居酒屋を営んでいると、人それぞれ、訳ありの事情を持っている。今回は、掲題のとおり、妻がフラメンコのダンス教室の教師をしている。その妻の地方公演に付き合ってくと、活き活きとして旅芸人の舞台を自ら司会し、色気を売って、仕切っていることがわかる。それを知らずにいてカルチャーショックを受けるが、夫には辞めさせる権利もなければ、理由もない。結婚生活の現代性を示した話。このような、視点であるなら、かなり大きな物語に展開する可能性があって面白い。
発行所=〒567-0064大阪府茨木市上野町21?9、大原方。
紹介者「詩人回廊」編集人・伊藤昭一。

カテゴリー:日曜作家

「海」第94号(いなべ市)

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2016年11月23日 (水)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

【「筏師」宇梶紀夫】
 鬼怒川の江戸時代の山村風俗を描き続けている作者である。今回は鬼怒川上流の山の丸木材を伐採し、丸太を筏にして鬼怒川を下って運搬する筏師の生活を描く。当時から世界最大の都市になっていた江戸城下町周辺の木材と石の需要は旺盛であった。鬼怒川から筏流しで、木材を運搬する筏師の視線で当時の庶民の風俗が良く調べて書かれている。
 筏師は、江戸に近い青梅の山の丸太を多摩川を使っても、下流の六郷まで筏を流し、江戸の町の屋敷建設を大いに盛りたてた。現在の高級住宅街となった田園調布の多摩川沿いに、筏道という道筋が残っている。これは、下流に丸太を流した筏師が、青梅に戻るための道筋であったという。
 本作では、鬼怒川の筏師の仕事と、丸太運送に通る川筋の説明と、周囲の人物像がおおまかに描かれている。欲を言えば、この設定をもってテーマを盛り込んでみたら、さらに厚みが増すように思う。
【「詩人 清岡卓行」久田修】
 清岡卓行は、東京・池上に住んでいたらしく、池上線池上駅近くにあったバッテンイグセンターによく通っていたようだ。かつて私自身、池上に住んでいた。この門前町のもつ静かなたたずまいというか、宗教的なものと多少持ち味のことなる霊性をもつ地であった。
 それというのも、そこは池上本門寺とその関連寺院の町で、面積の割には人口が少なかった。そのため商店街も地味で、そこに新しく店を出しても、見かけより人口が少なく、多くが撤退していた。その頃の町の雰囲気と清岡卓行の詩や散文が実にぴったりとしていたのである。現在は、高層マンションが多く建って、人口が増え、さびれていた行きつけの茶坊がにぎわう。静寂さを失ってしまい、昔のような町ではなくなっている。
 清岡卓行も原口統三も、読んで親しみを感じていたが、自らの生活には無縁のものであることは、確かである。しかし、「朝の悲しみ」や「アカシアの大連」にある美しきもの、愛しきもの存在を思い起こすのである。
 作者の清岡卓行きへの傾倒する想いと参考資料の豊富さは、貴重なものだ。
発行所=〒511?284三重県いなべ市大安町梅戸2321?1、遠藤方。
紹介者=「詩人回廊」北一郎

カテゴリー:海(いなべ市)

「弦」100号(名古屋市)

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2016年11月17日 (木)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

 本誌掲載の合田聖文「ビームを浴びて」は、がん治療体験記として、有意義なことから、概略を「暮らしのノートITOhttp://blog.livedoor.jp/hbk3253/archives/51489486.html」に紹介記事にした。
【「チマチョゴリの時」木戸順子】
 容子は65歳になって、NPOの国際交流活動に参加し、世界各国からの人々に日本語になれる交流会に参加している。そのなかで、韓国籍だが、日本人名をもつ金井君のことを思い起こす。少年時代はよく遊んだが、彼の一家は廃品回収業をしていて、周囲から差別を受けていた。そうした間にチマチョゴリをみる機会があって、それがとてもきれいで、着てみたいと言ったことがあった。金井君は後に母国に帰ってしまう。その後、彼がチマチョゴリを送ってくるが、父親はそれを怒る。
 そのほか、現在起きているヘイトスピーチの波紋についてなどが違和感をもって話題にされる。容子は思春期の金子君とのほのかな想いを胸にしまって、国際交流のイベントにチマチョゴリを着ていこうと思う。
 意図が先行して、話の展開にぎこちなさがあるとは思うが、民衆における国家と国民の関係の硬直したなかでのひとつの心情の表現にはなっていると思う。
発行所=〒463?0013名古屋市守山区小幡中3?4?27、中村方。
紹介者=「詩人回廊」北一郎。

カテゴリー:

「星座盤」第10号(岡山市)

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2016年11月13日 (日)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

【「透明な水を湛える」浅岡千昌】
 小さな島にある祖先の墓を、血縁の誰かが守らねばならなくなった。親族は、ほとんど島の外に出ていってしまう事態になった。そこで、作家として暮らしを立てている縁者の私が、島に住んで墓守りをすることになった。独身で毎日散歩と墓守だけの生活。主人公が現在書こうとしている小説は、三崎という自死した男の物語だ。しかし、幾度も編集者からだめだしを受けてしまっている。
 ここでは、孤独に暮らす私に風景はどのように見えるか、何を思うかが述べられている。それだけで充分読み応えがある。短いせいもあるが、はじめから話の方向性が見える明解性に、読む意欲を引き出された。何事も起きていないが、主人公の情念の表現で十分物語が成立している。
【「十年アラーム」三上弥栄】
 オフィスレディの恋愛。それととパワハラから転職する話。転職後の会社で成功し、社員募集の面接員となる。すると、散々に主人公パワハラをした上司がリストラされたのか、募集に応じて来たというオチがある。生活日誌的な作風であるにも関わらず、現在問題となっている過重労働に絡むようなオフィス事情を素材にしているのが、時代の流れを感じさせる。
【「真珠」濱本愛美】
 医療事務員で30歳女性の私は、彼氏が本業がありながら副業のセールス活動をするのに付き合あわさせられる。また顎の痛みの原因がわからず、医師に唾液腺に結石ができたことを知らされる。ひょんなことで、その結石がとれるところで、終わる。その間の彼氏との関係が語られるが、この世代の風俗がよくわかるのが読みどころになっている。各世代間でライフスタイルが異なる時代には、これも一つの世代の表現として読める。
【「かろうと」水無月うらら】
 人生の当面の目標として、まず独身生活を通す主義から自らのお墓をつくることにしている30代の女性の物語。面白いキャラクターを考えるものだ。若い時期から死のことを考えるということで、彼氏から求婚される状況でも、読んでいて妙な意味合いをもって読める。また、この変な趣味の女性が不自然でなく感じさせるところが表現力の妙であろう。
発行所=〒701?1464岡山市北区下足守1899?6、横田方。
紹介者=「詩人回廊」北一郎。

「群系」37号(東京)

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2016年11月 8日 (火)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

【「桜の木が倒れた日」荻野央】
 「わたし」の住むマンションの前に、木村という老人の「木村屋敷」がある。そこに一本の桜の大木がある。「わたし」は、息子が海外に住み、最近妻を亡くした。桜の木の老木ぶりを気にかけていたが、老人の判断で木村屋敷を、壊してマンションにするのだと知らされる。子供たちのへの資産として残すためだという。そして、桜の大木が2台の重機でネジ切られるのを痛々しく目撃する。
 時代による喪失現象と、妻の喪失心を重ね合わせる男の心情を描いた現代的散文詩に読める。文体の水彩画のような透明感が、楽しめてすばらしい。日本の心情の伝統的な価値観の象徴性をもつ桜の木。それを知らないわけでもない老人が、過去との精神的決別をいとも簡単にする。世相に対する抵抗感と、妻の喪失後の不機嫌な気分が、時代の風潮への抵抗感として共感を抱かせる。
【「兄の死」ハッピー(2)小野友貴枝】
 主人公の「悦子」の実家の大坪家の兄、長男が91歳で亡くなった。昔は名字帯刀を許された由緒ある家柄だが、その息子が70歳で家を出ており農業をすることはない。戦後に再興を果たし兄の地域の豪農家が、消滅する情況にある。8人の兄弟姉妹であったので、通夜では各地の遠方から皆が集まる。
 ここでは、悦子が認知症の始まった姉をつれて、出かける。その上の姉と近くの駅で落ち合い、兄と対面する。亡くなった兄の顔つきが、生前より痩せていることから、自ら職を絶って、死に至ったのではないかと、推察する。
 家族それぞれの事情をかかえたものが、葬儀に集まる様子を、悦子の視点でドキュメンタリー風に描くことで、高齢化社会の現状を表現している。プロローグで、所有者不明の土地が8%を占めるという現状を示し、それがどのような状況から生じているかを、ひとつの事例をしめして、納得させる仕組みになっている。
 また、悦子と認知症の姉の言動を多く採用して、日本の将来に向けた皮相的風刺効果をあげている。現代性という意味では、通常の概念の小説の形に変化することもありそうと思わせ予感を含んいる。個性の発揮された特徴のある作品として面白く読める。
【評論「伊藤桂一初期の私小説『産卵』?生かされたものとしての義務」野寄勉】
 作者の伊藤桂一作品への評論は、本誌で長く継続されており、その熱意と評論に毎回納得させられている。今回も釣りに題材をとった「産卵」の梗概が素晴らしい。
 伊藤桂一氏がなぜ釣りに傾倒し、雑誌に多くのエッセイを発表している。本編ではその動機を、戦場のなかで生き残ってきた贖罪の意味を含めて解説。それを戦場を体験したことのPTSDへの癒しでもあるとしているところは、なるほど、とその見解の現代性に新味を感じさせられた。
 ちなみに伊藤氏は住職の息子であったことから、おそらく戦場での間は、明日おも知れぬ兵士の立場で、禁欲的な修行僧のような心境になっていたようにも思える。戦場からの生還は、死に満ちた修業期間から俗世間での生活に変わったことへの精神的均衡の必要があったのかもしれない。
 わたしの記憶では、戦争から帰って、自分と母親の家事を面倒を見てくれる女性と結婚を考えた。しかし、戦場においては性的な機能は失われ、排尿の具と特化してしまっていた。そこで、機能を回復するのに、野口晴哉氏に整体治療を受けている。世俗界への参加である。昭和50年に刊行の「伊藤桂一詩集」(五月書房)には、戦後の釣り旅の題材が多くあって、「鰍の詩」では、釣り上げられた鰍が、しばらくは夢から醒めたごとき優雅な放心にあえぐが――魚籠に入れると珠玉のごとく沈む/その 観念の仕方がまたたまらない――。生命体から物質に移行する瀬戸際を視ている。また、「蝉の伝説」では、蝉の声を――テンダイ ウ―ヤク/ジョ―フク ジョウリク――と聴くのである。
  風景のなかの樹も虫も石も風などあらゆる存在物が、詩人と会話する。常に世俗と霊界とを交流する魂の人であったように思う。
発行所=〒136?0073江東区大島7?28?1?1336、永野悟方、群系の会
紹介者=「詩人回廊」北一郎。

カテゴリー:群系

2016年11月 4日 (金)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

 福島原発事故で、安倍首相がアンダーコントロールにあると世界に宣言した福島の原発事故の収束作業。これの現場からの声として、評論の一部を「暮らしのノートITOこれは人間の国か、フクシマ」に掲載した。本誌の秋沢陽一「扉の言葉」には、文学的発想の紹介がある――あらゆる局面で権力側の人間は決して危険に身をさらすことがない。そこに例のフリッツ・ホルムの提唱する「戦争絶滅受号法案」の出番がある。「戦争が開始されたら10時間以内に、次の順序で、最前線に一平卒として送り込まれる。第一、国家元首。第二、その男性親族。第三、総理大臣、国務大臣、各省の次官。第四、国会議員。ただし戦争に反対した議員を除く。第五、戦争に反対しなかった宗教界の指導者」。庶民はこの立法精神を発想の根に据えたいーー。これは風刺小説にそのまま使えそうな素材である。
【評論「原発小説論」(3・11以前の小説―7―澤正宏】
 1980年代の小説(二)吉原公一郎「破断 小説 原発事故」を対象にしている。この小説が3・11を予言するような事態を描いていることを検証している。おそらく発刊された時代では、原発に関する関心が薄く、その利権関係や設備の構造なども理解できなくて、それほど読まれなかったであろうと推測される。
 ここでは、すでに原発の設備のメンテナンスには、作業者の放射線被ばくがつきもので、通常ではやりたがらない仕事である。そこで高給を目当てに原発のある場所を渡り歩く、専門作業員が出て来た。それを「原発ジプシー」と称して、ドキュメントにまとめるライターや写真家がいた。吉原は、彼らの取材対象と対米関係での利権関係を関連付けて予言的な作品を書いていたことがわかる。また、ここに米国からきた黒人作業員のことが記されているが、樋口健二写真集「原発」(1979年7月発行)には、米国から日本に出稼ぎ技術指導に(おそらく「GE」)きているらしき黒人の写真が掲載されている。
【「『むらぎも』論(1)二つの高台と二つの窪地」石井雄二】
 プロレタリア作家・中野重治の小説「むらぎの」に関する評論である。大西巨人、桶谷秀昭の評を引き合いに出し、「むらぎも」の冒頭に象徴的に「二つの高台と二つの窪地」についてのこだわり方に意味を追求するものように読めた。
 この高台の住人と窪地の住人をブルジョワ層とプロレタリア層の階級社会になぞらえたものと表現したことへの中野の階級意識の本心をさぐる。
 現在、マルクス主義思想による階級対立社会としてとらえる世界認識は、全的に肯定されない状況にある。どのような認識での評論になるのか興味深く思うと同時に、時代背景への理解を前提としたものになるようにも思える。
発行所=福島市蓬莱町1?9?20、木村方。「ゆきのした文庫」。
紹介者=「詩人回廊」編集人・伊藤昭一

2016年10月30日 (日)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

  本誌には 「第一回文学フリマ岩手開催記念アンソロジー」という副題がついている。よくまとまっている。通常の同人誌は、自由に作品を集めてアンソロジー化したもの。商業文芸誌を買っても、そこに掲載された作品や小説をすべて部読み通すということはない。これは宮澤賢治など「岩手県にまつわる文学的背景をテーマとした作品集」として構想・企画されたと記されている。岩手の文学精神性でつながった作品ばかりのため、全体で統一的なひとつの作品に読めないこともない。各作品に「著者紹介」では作者の作品へのコメントと「文学フリマ岩手開催に寄せて」という発信がある。作者の姿勢において、同人以外の一般読者に向けて執筆したものという、誰に対しての表現なのか、という方向性を明確にしている。
【「ふたごもりの家」良崎歓】
 孤独な男女が出会い、蚕となってつがいになる。生命体の生きる力には愛があるという本質に触るメルヘン。著者紹介「生まれも育ちも北東北。お話を考えることが趣味で、文章や絵をネットでひっそりと公開しています。好きなものは、異能に悩む少年少女と、あやかしと虫、北国の田舎町の四季。「見回せばすぐ隣にある、ちょっとだけ不思議なこと」にとても惹かれます。(略)」。フリマ開催に寄せて、岩手は文学好きにとって魅力的要素が詰まった土地と思うので、第一回「岩手文フリ」を機に、地元文学の盛り上がりと、拡大に期待するというコメントがある。
【「銀河ステーションの夜」ひじりあや】
 東京・鎌倉を舞台に賢治の「銀河鉄道の夜」に絡んだ話が展開する。ライトノベル風で読みやすい。東京からの参加で、岩手文フリに寄せる言葉では、東京での文フリ開催に、多くの他地域からの参加があって、盛り上げに貢献してこられたことへの感謝をこめたmのだという。
【「永遠の流れ 黄金のゆらめき」白川タクト】
 著者はサークル「まぶいぐみ」。主に中国近現代史萌え小説や中国戦争映画レビュー。作品は歴史学の観点から奥州藤原氏を描く。
 その他、木之下、帰鴉、坂崎竜、ふじ、青砥十、谷村行海、掘真流知、文乃深森、ひなたまり、玄川透、しほ、たびーの作家、それぞれ岩手の文学多くの人々に共有されることの喜びが表わされている。
発行所=文学フリマ岩手事務局。
紹介者=「詩人回廊」編集人・伊藤昭一。

「季刊遠近」61号(横浜市)

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2016年10月21日 (金)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

【「紙の卒塔婆」藤民央】
 夫が外で女関係が激しいことから、妻である重岡春代の視点からはじまる。広郷という夫の姓と、重岡という姓の関係がよくわからないが、夫は東京市役所に勤め、作家活動もしている。肌合いに馴染むような自然な文章タッチで、日本の軍国主義時代の生活ぶりと、人間像が描かれている。連載ものだが、意味深な感じの登場人物像の描き方が時代の空気を感じさせる。
【「赤い造花」難波田節子】
 家族の古いしきたりの残る時代の女性の立場から、とくに母親との葛藤のことを思い出す話。女性の言い分だけが強く出ている。自己批判もあるが、どことなく時代性への焦点の絞りが物足りない感じがした。
【「婚活生活―グループ交際」森重良子】
 女性が、現在よりより良い生活を求めて結婚相手を探す。同じ目的の女性が何となく集まってしまう。現在の社会状況では、独身男性の収入が下がる傾向のなかで、女性は独身で収入をすべて自分のために使える自由を謳歌した方が幸せという発想で、結婚しない女性も増えている。どちらも、結婚生活という共同生活が、必ずしも歓迎される状況ではなくなった時代の風俗である。
 本作でも、婚活で結婚にこぎつけた人と、まだ出会いのない女性の方は、結婚生活への不安が語られる。シリーズ化のようなスタイルなので、書き進めるうちに、風俗的なものから、人間性の本質に迫るものが生まれるかも知れない。
【「扉を開けて」逆井三三】
 サラリーマン社会のなかの男女交際の情念の機微を語る。竹田一郎の孤独感と、同僚の洋子というOLへのささやかな思慕を絡めて、一郎の生活感覚を表現している。作風の根底に人間の社交性と孤独性への皮肉な視点があり、面白く読める。
発行所=〒215-0003川崎市麻生区高石5?3?3、永井方。「遠近の会」
紹介者=「詩人回廊」北一郎。

カテゴリー:季刊・遠近

「婦人文芸」第97号(横浜市)

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2016年10月14日 (金)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

【「三國さんのこと」西山州見子】
 話題性の面白さとしては、これが第一であろう。作者は、約30年前の昭和59年、自宅を鉄筋三階建てのアパートにして、そこの大家をしながら住んだ。部屋の賃貸にはペット「可」にした。
 すると、管理会社から、俳優の三國連太郎と夫人と犬とで住みたいと連絡があったのだという。三國連太郎60歳代のころ。世田谷に自宅があるが、地方ロケの時に、一軒家を留守にするのが不安なので、そこを他人に貸しておいて、しばらくの間アパートを借りたい、という話であった。愛犬と暮らせるアパートがなくて、困っている事情があった。
 しばらくならよいであろうと、承諾した。三國一家が挨拶にきた。連太郎は大柄でがっしりした身体をしていた。犬の名は小太郎で、夫人は連太郎より25歳年下と教えられる。
 居をかまえた三國のこの時期の出演した映画作品は「マルサの女」、「利休」以下、多くあったという。「マルサの女」の教祖役の時は、ちょっと怖い雰囲気で、「利休」のときは穏やかな人柄の雰囲気であったという。
 越してきて間もなく「釣りバカ日誌」が始まった。ロケに使った魚のお裾わけが幾度もあったこと。夫人が方角よいというように、その間、「利休」「息子」で日本アカデミー賞主演男優賞を2度も受賞したという。アパートは、知る人ぞ知るで、釣りバカの「スーさんの家」と噂された話など、今は亡き名優のエピソードで興味尽きない。
【「福島弘子さんのメガネ」志津谷元子】
 同人仲間であった福島弘子さんが亡くなって、彼女との交際の思い出を語る。独身を通し、小説への情熱を絶やさないその人柄と、作者の思いが伝わる姿見の良い鎮魂の章に読めた。
【「野尻湖の家」菅原治子】
 ある主の余裕がある家族が、野尻湖畔に別荘を持つまでの家族の過程が描かれている。ある意味で、かつての家族がもとまって、一体感を維持していた時代への郷愁の物語。
 そのなかで、思春期の豊という長男の家族的なまとまりに反抗し、個人としての自己主張をすることに、母やが神経を尖らすとことが、本題となっているようだ。
 その他、エッセイや掌編があるが、それぞれ文章に習熟した書き手が多く、それぞれ来てきた時代のさりげない日常を題材にして、感慨を与えるものが多い。
 発行所=220?0055横浜市西区浜松町6?13?402、舟田方、婦人文芸の会。
紹介者=「詩人回廊」北一郎。

カテゴリー:婦人文芸

「澪」第8号(横浜市)

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2016年10月 2日 (日)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

 本誌の【「クラシック日本映画選2『東京裁判』」石渡均】については、ジャーナリズムの一部と読み、紹介も長くなったので、暮らしのノートITO≪「映画評論「東京裁判」(石渡均)の意味」≫に述べた。
【「私は ずっと昔から こうよ」柊木菫馬】
 横浜に住む麻衣子という女性のライフスタイル小説であろう。恋人の宗佑という自衛隊員がいて蜘蛛のタトーを入れている。彼と付き合っているうちに、彼女も脊中に蜘蛛の刺青を入れたらしい。それから溝口という10歳上のバツイチ男との交際もするが、漠然とした関係でしかない。そもそも、麻衣子の男女関係は作者のいうように恋愛なのか。自己主張があるようでない。現代女性の生活のありさまから、日本の時代の迷いが見える。
【評論「ハイデガーを想う(?)(『形而上学とは何か』を中心に 等)」樫山隆基】
 誰の言葉か忘れたが「思索を語ることこそ最大の自己表現である」ということを感じさせる。自分にとっては形而上学というのは、日常生活にはなくてもあっても、どうでも良いことの世界で、その反対の形而下学は、日常生活にかかわる具体的なことがらに関する学問であろうと思っている。
 ハイデガーといえば著書「存在と時間」での、実存哲学論が著名だ。この評論では彼の書いた「形而上学とは何か」という著書に関する研究評論である。形而上学があるので、形而下学もある。現実生活は常に形而下学的世界のなかにある。空飛ぶ鳥は夜ねぐらに帰り、野のユリはただ咲いて誇ることがない。動物的生命体の範囲内にある。このように、考えるのは私が世俗人としての立場にあるからであろう。
 ここでは、作者の世俗的な体験感覚のなかで、存在への認識を意識する出来事を、存在感感覚と結びつけた思索を展開している。
 まず、キューブリック監督の「2001年宇宙の旅」のラストシーンでシュトラウス作曲「ツァラトゥストラかく語りき」が使われていることについて、哲学者ニーチェの「永劫回帰」思想を念頭に置いていると述べる。
 そしてそのシーンの一部から、川端康成の「末期の眼」の一節が浮かんだという。そこから若き日の心臓病による死との直面体験を語る。死への想念を思索するため、キルケゴール、ニーチェ、カミユ、カフカ、サルトルと読みこんだという。
 その結果、存在することの不思議さを認識する思索、つまり哲学することの意義を知ることができる。サルトルの「嘔吐」の主人公が、存在者としての自己が、樹の根っこの存在感に負けるというか、嫌悪するシーンが引用されている。改めてサルトルの実存主義感覚の西欧性を感じさせるものがある。
 従来、同人誌に掲載された哲学論および評論をかなりの数読んできた。それらの多くは、たしかに私の知見を広くし、学ぶものがあった。しかし、その知見によって、自己認識を強めることはなかった。それに対し、本論では、思索における人間の存在の在り方について、自己認識を強める行為の有効性に力を与えてくれるものがあった。
発行所=〒241?0825横浜市旭区中希望ヶ丘154、石渡方。文芸同人誌「MIO・澪」の会。
紹介者=「詩人回廊」北 一郎

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